土佐藩の階級制度

土佐藩では上士や下士等の身分制度があり坂本龍馬は下士の中でも郷士と呼ばれる身分でした。

郷士は、基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていた。
関ヶ原の戦い以前の旧領主である、長宗我部氏遺臣の一領具足の系譜を引く者が多く、慶長18年(1613年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行う度に取り立てられてきた。
これらは、長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙ったものであった。(徳川幕府は、大名統制策として様々な普請を外様大名を中心に請け負わせており、また、地理的条件から土佐藩の江戸参勤に掛かる費用も莫大であったことから、土佐藩では早くから増収策に熱心であった。)
なお、郷士一人当たりの開発許可面積は、だいたい 3町程であった。

時代が進み、江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し始める。
すると、困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。
当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、しだいに、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(郷士の多様化)。

元禄期には郷士も公役につくことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきた。
幕末には郷士総数は800人を数えた。内、370人が大組と呼ばれ、おのおのが家老に属しており、御預郷士とよばれた。残り430人が小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付郷士として、非常時に規定の場所で海防に従事していた。

なお、多くの郷士が農村や山間部に居住していたが、上士(土佐藩の山内系藩士)居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者もいたようである(→坂本龍馬の家が一例である。)

藩主(はんしゅ) 山内容堂
上士(じょうし) 参政(さんせい)・家老(かろう)

吉田東洋・後藤象二郎

家老格(かろうかく)  
上席中老(じょうせきちゅうろう)  
下席馬廻(しもせきうままわり)  
新馬廻(しんうままわり)  
上席小姓組(じょうせきこしょうぐみ)  
下席留守居組(しもせきるすいぐみ)  
新留守居組(しんるすいぐみ)  
下士(かし) 白札(しらふだ) 武市半平太
郷士(ごうし) 坂本龍馬岡田以蔵
徒士(かち)
徒士格(かちかく)
下席組外(しもせきぐみがい)
古足軽(ふるあしがる)
足軽(あしがる)  
下足軽(しもあしがる)
庄屋(しょうや) 中岡慎太郎吉村虎太郎
地下浪人(じげろうにん) 岩崎弥太郎 ※後に郷士

身分について■上士
上級藩士。
関ヶ原の戦いで東軍側についた山内一豊は、その功績を認められ土佐一国を与えられた。上士は主にそれ以前の山内家の家臣たちにあたる。
上士と郷士の差別化は徹底しており、下駄や日傘の使用は上士しか許されていないなどその違いは多くあった。

■下士
下級藩士。白札、郷士、徒士、徒士格、下席組外、古足軽、足軽、下足軽、庄屋というように細分化されています。
・白札
藩に対し功績をあげ、認められたものは郷士であっても上士の扱いを受ける白札となる制度がありました。
・郷士
長宗我部家の家臣の一領具足の系譜を引く者たちが、山内家に取り立てられそう呼ばれるようになった。
他藩に比べ、土佐藩は上士と郷士の差別化が徹底して行われていた。
坂本家はもともと商家でしたが、郷士株を新規に取得し郷士となりました。

■地下浪人
郷士の株を売った者は地下人と呼ばれました。その中でも40年以上郷士であった家は、特別に藩から名字帯刀が認められていました。
岩崎家は40年以上郷士であったため、名字帯刀が認められていました。