なかおかしんたろう
天保9年4月13日 – 慶応3年11月17日
(1838年5月6日) – (1867年12月12日)
日本の志士(活動家)である。陸援隊隊長。
土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋 中岡小傳次、はつの長男として生まれる。武市瑞山(半平太)の道場に入門し、文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。
文久2年(1862年)、長州の俊英久坂玄瑞・山県半蔵とともに、松代に佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。
文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに藩を脱藩し、同年9月、長州藩三田尻(現防府市)に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(「衛士」)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となる。
明治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて禁門の変、下関戦争を長州側で戦い、負傷する。
長州藩への冤罪・雄藩同士の有害無益な対立・志士たちへの弾圧を目の当たりにして、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させる(中岡慎太郎自身のこの頃の手紙による)。そして、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)と薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を志士たちの第一の悲願として活動し始める。三条実美とも連絡を取りつつ脱藩志士たちのまとめ役として、薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り、海援隊の坂本龍馬や三条の随臣土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて巻き込んで行き、慶応2年(1866年)1月21日(あるいは22日、旧暦)、京都二本松薩摩藩邸において薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
慶応3年(1867年)2月、同志坂本龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。その後、薩土同盟についても同様に奔走し、まず、5月21日(旧暦)、土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松帯刀・西郷吉之助との間で倒幕のための薩土密約締結に成功する。
更にに土佐藩そのものを本格的に取り込むための運動を展開し、6月22日(旧暦)、京都三本木料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村左膳・後藤象二郎・乾退助・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結される。
この薩土盟約は、更なる雄藩連合推進のため、同年6月26日、長州藩の隣の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に拡大発展する。しかし、これらの薩土同盟・薩土芸同盟は、土佐藩・安芸藩自身による大政奉還建白書や山内容堂の徳川宗家への強い「恩顧」意識のため、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いにおいて薩長官軍側の優勢が判明するまで実質的な威力には乏しかった。
しかしながら、これらの慎太郎・龍馬の労苦の結晶である軍事同盟締結は、土佐藩内においては旧態依然とした兵制を改革させる決定的契機となり、土佐を戊辰戦争において薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた。また同時に、倒幕後の政治ビジョンを描かざるを得ないことから封建制・幕藩体制をどう変えていかなければならないかという意識改革・藩政改革を他の諸藩よりも早めに進めざるを得なくなり、土佐出身者を薩摩・長州・肥前出身者同様に幕末・明治をリードする主要政治勢力たらしめた。
7月、かねてから長州で見聞させてもらっていた奇兵隊を参考に陸援隊を本格的に組織し始め、自ら隊長となり、白川土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定める。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。
11月15日(旧暦)、京都近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負う(近江屋事件)。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語り、11月17日に死去した。享年29。
墓所は、京都市東山区の京都霊山護国神社ほか。室戸岬に銅像が立つ。この銅像は桂浜にある坂本龍馬の銅像を向いているといわれている。
『龍馬伝』キャスト上川隆也
中岡慎太郎館・中岡慎太郎生家
中岡慎太郎館は、高知県安芸郡北川村にある慎太郎の生きざまを史実に基づいて、鮮烈に、リアルに再現した歴史館です。近くには中岡慎太郎生誕160年を記念し全国からの募金によって建立された中岡慎太郎像もあります。
また、中岡慎太郎館の隣には1967年(昭和42年)11月17日(慎太郎の命日)に復元公開された中岡慎太郎の生家もあります。生家は入母屋造り茅葺きの家です。