いろは丸は江戸時代末期、いわゆる幕末に伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた西洋式の長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船。
1862年イギリス・バーミンガムで建造、アピソ号と命名される。
1866年6月大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が長崎において、龍馬の勧めによりオランダ人商人ボードインから42,500両で購入したというのが通説でしたが、大洲藩が「いろは丸」を購入した時のポルトガル語の契約書が見つかったことが2010年4月23日に愛媛県大洲市によって発表され、覆りました。
発表によると、ポルトガル人領事・ロウレイロより購入したものだと判明。4万メキシコ・パタカ、10,000両相当で購入したようです。
また衝突した時に支払いが済んでいなかったとの一説もありましたが、購入時に全額支払い済みであることもわかりました。契約書のサイズは縦は約30cm、横は約40cmだそうです。購入時に船名を「いろは丸」とすることを大洲藩が宣言しました。
しかし、藩に購入についての許可を得ていなかった国島は責任を取り12月24日切腹。
最初の航海で瀬戸内海、備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市)で紀州藩の明光丸(887トン)と衝突し、近くの鞆港(現在の広島県福山市)に曳航しようとしたが、浸水のため宇治島沖で沈没した。
★いろは丸沈没事件とはどういう事件だったのか…
「いろは丸」は海援隊が借用するまでの間は、赤地に白の蛇の目の紋旗を掲げて、数回に亘り海運業としての航海を行ったが、其の運用には菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎と云った亀山社中の同志があたっていた。
こうして、「いろは丸」と亀山社中、そして海援隊は深い係わりを持つことになったのである。
慶応3年4月23日午後11時頃、いろは丸は最初の航海で瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、紀州和歌山藩船・明光丸と衝突し沈没。
明光丸は紀州和歌山藩が、15万5000ドルかけてイギリスから購入した、150馬力、880トン、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。
積載量は160トンあり、いろは丸の実に6倍近い巨船でありました。
明光丸は一度いろは丸に衝突した後、あわてて後退し、またもや前進して二度にわたり衝突したといいます。
いろは丸は自力航行不可能となり、坂本龍馬率いる海援隊乗組員が明光丸に乗り移った後、備中・宇治島沖で沈没しました。
★賠償の交渉
その後は、55万石の紀州藩を相手に、海援隊は坂本龍馬をはじめ、総掛りで賠償の交渉にあたったそうです。
お互いに航海日誌を提出し、衝突の原因と、責任について激しい攻防戦が行われたといいます。
その後、交渉に土佐藩の後藤象二郎が加わり、事は土佐藩と紀州藩の事件に発展しました。
最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれ、遂に紀州藩は賠償金の支払に同意したのである。
この決着の裏には、坂本龍馬や岩崎弥太郎の決死の根回しや、対応が実を結んだ物であることは見逃してはならない。
龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した、傑出した戦いの勝利であった。
★龍馬がとったいろは丸事件の交渉術(坂本龍馬記念館さんに教えてもらいました)
●まず、航海日誌をお互いに持ち出すようにした。
●海援隊のメンバーに「一戦交える覚悟でやるんだ!」と激をとばし、航海日誌や談判記録の保全を再度命令。
●龍馬が家を借りている人に「家には誰も近づけんように」と見張りを付けた。
●京都の出版元に「万国公法」の印刷を以来。
●紀州藩の船長らと交渉。(龍馬の言い分がもっともなので、船長は交渉の席に着きたくないので逃げ回っていた)
●土佐藩から後藤象二郎を呼び、交渉にあたった。龍馬も一緒に応戦した。
さらに、後藤がうるさく責め立てたので紀州藩は薩摩藩の五代友厚に仲介を依頼。紀州藩は賠償を支払うことに同意。
●この間、龍馬は世論を味方につけるため長崎の繁華街で「船を沈めた紀州藩は償いをせよ」という歌を流行らせた。
これにより、長崎の人々は海援隊に「紀州をやっつけろ」などと応援に来たという。
※つまりこういう事をやったのです!
◎一戦交える臨戦態勢
◎世論操作と情報発信
◎身内の安全確保
◎筋を通した交渉
◎強力な応援体制の確保
◎交渉の結着点、結着対応を決める