亀山社中・海援隊

亀山社中

1865年9月、幕府機関である神戸海軍操練所の解散に伴い、薩摩藩の援助を得て長崎の亀山(現在の長崎市伊良林地区)において前身となる亀山社中が結成され、グラバー商会と銃器の取引を開始し藩に銃器などを卸す。物資の輸送や航海訓練なども行い、1866年の第二次幕長戦争においては、長州藩の軍艦に同乗し、6月の下関海戦に従軍する。

1867年4月には龍馬の脱藩が許されて隊長となり、土佐藩に付属する外郭機関として「海援隊」と改称される。いろは丸沈没事件においては、紀州藩に賠償金を請求する。

海援隊

海援隊(かいえんたい)は、江戸時代後期の幕末に、土佐藩脱藩の浪士である坂本龍馬が中心となり結成した貿易結社である。1865年から1868年まで3年余りに渡り、私設海軍・貿易会社として活動した。薩摩藩などの資金援助を受け、日本初の株式会社とも言われる。中岡慎太郎が隊長となった陸援隊と併せて翔天隊と呼ばれる。

武器や軍艦などの兵器を薩摩藩名義で長州へ流すなどの斡旋を行い、険悪であった薩摩と長州の関係修復を仲介する。6月、薩摩の西郷隆盛(吉之助)・長州の木戸孝允(桂小五郎)を代表とする薩長同盟の締結に大きな役割を果たす。

朝廷の復権・倒幕運動に奔走するが、内戦回避を主張する坂本と、薩摩・長州の武力倒幕論が意見対立し、同年11月15日、京都・近江屋で坂本が陸援隊隊長の中岡慎太郎とともに暗殺されると求心力を失って分裂し、戊辰戦争が始まると長岡謙吉らの一派は天領である小豆島などを占領し、菅野覚兵衛らは佐々木高行とともに長崎奉行所を占領した。長岡が土佐藩より海援隊長に任命されたが、翌年4月には藩命により解散される。土佐藩士の後藤象二郎は海援隊を土佐商会として、岩崎弥太郎が九十九商会・三菱商会・郵便汽船三菱会社(後の日本郵船株式会社)・三菱商事などに発展させる