脱藩

土佐勤王党の結成

嘉永六年(一八五三)のペリー来航は、鎖国体制に大きな穴を開けただけではなく、幕藩体制崩壊の始まりになる。当時朱子学の名文論と国学により明らかにされた国体観念が結合して尊王思想が形成された。

文久元年(一八六一)八月、江戸に出て薩長の尊王攘夷派と交わる中で、尊王攘夷論による土佐藩有志の結集を企てた武市半平太(端山)は、同士大石圓に土佐勤皇党血盟の趣意書の作成を依頼、自ら盟主となって同士を募った。

趣意書は「堂々たる神州戒狄の辱めをうけ、古より伝はれる大和魂も、今は既に耐えなんと帝は深く歎き玉ふ」に始まり、「錦旗若し一とたび揚らば、団結して水火をも踏まん」と誓う。坂本龍馬を始めその盟約書に名を連ねたものだけでも百九十二名。機会を逃して連盟こそしなかったが、これに同調したものはその倍にも達したのではないかと言われている。

しかし、そのほとんどは郷士とか庄屋、そのほかこれに類する下級武士でいずれも国のために一命を投げ出そうという血気の壮士であった。半平太は、藩の勤王化を目指して吉田東洋を説得したが、書生論として退けられたため、文久二年4月暗殺。以後土佐勤王党として君臨するが、藩政の要職は反吉田の門閥重臣層が占めていたため思うようにならなかった。山内容堂は東洋の横死により勤王党を快く思わず、文久三年に起こった公武合体派による八・一八政変を機に勤王党の弾圧に乗り出し、半平太ならびに同調者を投獄したが、党員の多くは脱藩して長州に逃れる。坂本龍馬や吉村虎太郎は、東洋の暗殺の前に脱藩した。

龍馬脱藩の道

脱藩

幕末の英雄・坂本龍馬は同志 澤村惣之丞とともに、文久二年(一八六二)三月二十四日高知を出奔し二十五日に梼原に到着、その夜梼原の勤王の志士那須俊平。信吾父子の家に泊まり、翌二十六日未明、俊平・信吾父子の道案内により、宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて予土県境・韮ヶ峠を越えて伊予の国(愛媛県)に脱藩した。

信吾は韮ヶ峠より引返したが、俊平は同行し、小屋村(野村町)水ヶ峠(川辺村)を経て泉ヶ峠(五十崎町)に宿泊、二十七日、宿間村(五十﨑町)についた。俊平はここから引返した。龍馬、惣之丞は船便にて長浜町へ、その夜冨屋金兵衛宅に泊まり、二十八日船で二日を要して三田尻(山口県)へ到着した。また梼原町の大庄屋・吉村虎太郎を始めとする勤王の志士十余名は、宮野々番所より西方の九十九曲峠を越えて脱藩した。

維新の門

維新の門高知県高岡郡梼原町にある維新の門です。平成7年11月11日に建立されました。
維新に活躍した梼原周辺地域ゆかりの志士たち8人の像です。
左から前田繁馬、那須信吾、吉村虎太郎、中平龍之介、掛橋和泉、澤村惣之丞、坂本龍馬、那須俊平です。
場所:梼原町役場から徒歩約5分