河田小龍

かわだしょうりゅう
文政7年 – 明治31年
1824年 – 1898年

幕末から明治にかけて活躍した土佐の絵師。
諱は維鶴、通称は篤太郎、号は小梁など。小龍も号のひとつ。
ジョン万次郎の取調べを行い、その際聞き取った西洋事情などをまとめた『漂巽紀略』を著した。
この西洋事情や思想は河田小龍を通して、坂本龍馬をはじめ、多くの志士に伝わり影響を与えたとも言われている。

文政7年(1824年)高知城下・浦戸片町に水主・土生玉助の長男として生まれる。祖父・河田金衛門の河田家を継ぐ。
幼少時より絵が巧みだった小龍は、南宋画家の島本蘭渓に入門し、その才を磨きました。また、儒学者・岡本寧甫のもとで儒学なども学んだ。
吉田東洋のすすめに従い、京都へ遊学。狩野派・狩野永岳に入門した。二条城襖絵の修復にも関わった。
その後も長崎にも遊学し、蘭学などを学んだ。

嘉永5年(1852年)には、ジョン万次郎(中浜万次郎)の取調べを行うことになる。その取調べでジョン万次郎から英語や西洋事情・思想など多くの知識を得た。それをまとめ、『漂巽紀略』を著した。こうして得た知識は小龍を通して、坂本龍馬をはじめ、多くの幕末維新の志士に影響を与えたとも言われている。

また、小龍が自邸に開いた塾「墨雲洞」の門下には長岡謙吉、近藤長次郎、新宮馬之助らがいる。
この塾は水天宮あたりにあったと言われている。小龍は安政の大地震で家をなくし、移り住んだ。龍馬が訪れたのもこの家だと思われる。

その後、製塩業などに手を出すもいずれも失敗。
晩年は絵師として活動した。内国勧業博覧会への出品や京都疏水建設工事図面の作成をした。
また、「高知市街全図」なども出版した。
明治31年(1898年)に死去。

『龍馬伝』キャストリリー・フランキー

関連ページ⇒河田小龍生誕地 墨雲洞跡