ひらいしゅうじろう
天保6年(1835年)~文久3年(1863年)
幕末の志士。諱は義比、号は隈山。
龍馬とは同年生まれで親交が深かった。
土佐勤王党に参加。幹部として活躍する。
小南五郎衛門、武市半平太と共に他藩応接役となる。
勤王党の構想する藩政改革を推進しようと工作をするが、そのことが山内容堂の怒りにふれ、切腹させられた。
天保6年、高知城下井口村に土佐藩郷士・平井伝八の長男として生まれる。同年生まれの龍馬とは親交が深く、収二郎の妹・加尾は龍馬の初恋の人とも言われている。
幼少時より文武を修め、伊勢の朱子学者・斎藤拙堂のもとで学ぶ。
文久元年(1861年)土佐勤王党に参加、幹部に。
文久2年(1862年)には、藩主・山内豊範の上洛に随行。同年8月、小南五郎衛門、武市半平太と共に他藩応接役となり、その能力を大いに活躍させた。
しかし、勤王党の構想する藩政改革を推進しようと工作をし、そのことが山内容堂の怒りにふれ、文久3年6月8日(1863年7月23日)に間崎蒼浪、広瀬健太と共に切腹させられた。
獄中、爪書で辞世を残したことは有名である。
享年については29歳と28歳の2説がある。
平井収二郎の墓・平井収二郎先生 生誕地
平井収二郎のお墓は「坂本家墓所」の近くにあります。「坂本家墓所」は、整備基本構想をまとめられた「坂本家墓所整備構想委員会」の委員の皆様をはじめ、丹中山の開発により土佐の歴史を築いた多数の先人の墓石が消滅することを憂い、十数年間にわたって保存・収集活動を続けた歴史写真家前田秀徳氏など多くの市民の献身的な努力によって完成しました。
辞世の歌は、
嗚呼悲哉兮綱常不張
洋夷陸梁兮辺城無防
狼臣強倔兮憂在蕭牆
憂世患國兮忠臣先傷
月諸日居兮奈我神皇
右の写真は平井収二郎のお墓にある辞世の碑です。
収二郎獄中の爪書きの辞世を妹・加尾が墓碑に刻するも藩吏が削除。維新後、再び加尾が碑を建て復刻。没後百四十年を記念し、加尾の曾孫・平井志治、西山澄子が建てた。
『龍馬伝』キャスト宮迫博之
関連ページ⇒山田町番所と獄舎跡
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