やまうちようどう(とよしげ)
文政10年10月9日 – 明治5年6月21日
1827年11月27日 – 1872年7月26日
土佐藩の15代藩主。諱は豊信。容堂は隠居後の号である。幕末の四賢侯の一人。
藩政改革を行い、吉田東洋を抜擢するなどした。
幕政にも関わっており、将軍世継問題を巡っては大老・井伊直弼と対立し、その後井伊の弾圧により隠居、その後謹慎の身となった。
後藤象二郎の進言により、第15代将軍・徳川慶喜に大政奉還を建白した。
文政10年(1827年)、高知城下にある山内家分家南屋敷で山内豊著の長男として誕生。
父の跡を継ぐはずでしたが第13代藩主・豊熈が急死、そしてその跡を継いだ第14代藩主・豊惇までもが急死。
豊惇には弟がいたが、当時まだ3歳であったため22歳の豊信が藩主に就任することになる。南屋敷は豊信の弟が継いた。
藩主となった豊信は藩政改革に着手。吉田東洋を抜擢するなどした。
また、幕政改革にも関わる。将軍世継ぎ問題を巡って、自身を含めた幕末の四賢侯と呼ばれた福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬らと共に一橋慶喜を擁立し、徳川慶福を推す井伊直弼らと対立した。前者は一橋派、後者は南紀派と呼ばれた。
しかし、一橋派であった老中・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬が死去。安政6年(1858年)には井伊直弼が大老となり、結局徳川慶福が時代将軍となることが決定した。豊信はこれに憤り、幕府に隠居願いを出す。そして井伊直弼による一橋派ら反対派の弾圧(安政の大獄)が始まった。
一橋慶喜をはじめ、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、豊信に謹慎が命じられた。豊信は隠居後より、容堂を名乗るようになった。
容堂の謹慎中に土佐藩ではクーデターが起き、桜田門外の変が起こってからは尊皇攘夷運動が活発化していった。藩内では土佐勤王党によって吉田東洋が暗殺された。
その後、謹慎が解け土佐へ帰国。隠居の身でありながらも藩政に関わった。
そして容堂は吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の弾圧を始めた。勤王党の党員らは次々と捕縛・投獄された。勤王党の党首である武市半平太に切腹を命じた。
外国からの開国への圧力、幕府の権威の凋落もあり、時代の流れは倒幕へと向かっていた。朝廷と幕府の一体化、公武合体の道を模索していた容堂は後藤象二郎から「船中八策」を進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白した。
維新後、内国事務総裁の任に就くが明治2年(1869年)に辞職。
晩年は東京で過ごし、酒と詩を楽しんだ。
明治5年(1872年)、46歳で死去。
文政10 (1827) |
1歳 | 高知城下にある山内家分家南屋敷で山内豊著の長男として誕生。 |
嘉永元 (1848) |
22歳 | 第13代藩主・豊熈が急死、そしてその跡を継いだ第14代藩主・豊惇までもが急死。 豊惇には弟がいたが、当時まだ3歳であったため22歳の豊信が藩主に就任することになる。南屋敷は豊信の弟が継いた。 |
嘉永6 (1853) |
27歳 | 東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じ、家老を押しのけて西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・ 身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行した。 |
安政元年 (1854) | 28歳 | 東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった。 |
安政4 (1857) | 31歳 | 東洋を再び起用し、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝悌らを起用した。 |
安政6 (1859) |
33歳 | 井伊直弼が大老となり、結局徳川慶福が時代将軍となることが決定した。 豊信はこれに憤り、幕府に隠居願いを出す。そして井伊直弼による一橋派ら反対派の弾圧(安政の大獄)が始まった。 |
文久2年 (1862) |
36歳 | 土佐勤王党によって吉田東洋が暗殺される。 |
明治2年(1869) | 43歳 | 維新後、内国事務総裁の任に就くが辞職。 |
明治5年(1872) | 46歳 | 死去 |
『龍馬伝』キャスト近藤正臣